「知識人の政治参加について」

 

 

 「君、高坂正堯先生を研究してるんだ。ふ〜ん。でもあの人って御用学者だよね。」

とある会社の面接で、京大出身の面接官が僕に対して発した言葉である。その一言に大人げも無くムッとした僕は色々と反論した。ちなみに、それが理由かどうかは不明であるが、その面接は見事に落ちた(もちろん、理由は僕の能力が劣っていたことにある!)。それはさておき、実際、高坂正堯への常套的批判言辞として「御用学者」なるレッテル貼りは決して珍しいことではなく、「現実主義者の平和論」で論壇デビューした頃は特にそれが激しかった。

学者、知識人は政治権力に対していかなる態度をとるべきか、という問題は古くかつ新しい。自らが生きる時代と場所、すなわち日本という国家の問題にいかに取り組むべきか。政治権力に対して、学者は十分な距離を置いて不偏不党・中立の立場から「学問的誠実さ(intellectual integrity)」を真摯に追求すべきであるという、戦後日本の学界に一般的な風潮や姿勢は決して間違っているわけではない。学問の自由が決して侵されてはならないことは言を俟たない。だが、権力との「適切・不適切」な客観的「距離」などというものは果たして存在するのであろうか。また権力と少しでも何らかの「関係」があれば、その学者の知的誠実さへの信用は一気に瓦解するものなのであろうか。大切なことは「関係」の「有無(一かゼロか)」ではなく、その「あり方」であろう。

それにしても「御用学者」なる言葉は何と聞くに堪えない言葉であろうか。広辞苑によれば御用学者とは「学問的節操を守らず、権力に迎合・追随する学者」のことであるという。普通の学者にとってはこれほどの侮辱はない。そういった学者も存在することを否定はしまい。しかし注意すべきは、やっかみ・嫉妬、皮相的な観察、そして主張する意見が異なる(左翼からのものが特に多い)が故のレッテル貼りが「御用学者」という言葉の利用に際して少なくないという事実である。確かに、高坂は政府関連の様々な研究会や懇談会を通して「政治」・「権力」と接点を持っていた。佐藤栄作政権期は、沖縄問題などで高坂が最も政治とつながっていた時期であり、佐藤栄作日記では所々で両者が個人的な会食を楽しんだ記述さえもなされている。だが、高坂の生き方を丁寧に追うならば、氏が戦後日本において政治権力と最も幅広く接点を持った稀有な学者であると同時に、「御用学者」なる言葉からは最も遠い人物であったことが理解されうるであろう。その意味で高坂は二重に稀有な存在であったとも言える。この小論は高坂への誤解・批判を解くと同時に、「知識人の政治参加」という問題を改めて考えていくためのきっかけづくりでもある。

 

戦後日本で高坂ほど政治権力、より具体的に言うならば自民党保守政権と接点を持ち、またコミットした学者はいない。防衛計画大綱(基盤的防衛力)、沖縄返還、総合安全保障など高坂が現実政治で果たした役割は極めて大きいといえよう[1]。「現実主義者の平和論」や「宰相吉田茂論」で論壇に颯爽と登場した頃から、すでに幾人かの自民党政治家は高坂に注目していたのである。

 

桑原武夫「この前学会の用事で科学技術庁長官だった時の佐藤栄作氏に会ったんですが、京大にはたいへんえらい先生がおられるという、それはたくさんいますよと言ったんですよ。名前忘れているんだな。どうしても出てこない。吉田さんのことを書かれた方ですと言うんです。驚きました。(笑)…」[2]

 

このように早くから政治の世界から注目され、助言を求められた高坂は佐藤内閣期において楠田實内閣秘書官が編成に尽力したブレーン・トラストの「原点」に位置することとなった。諮問機関である「沖縄問題等懇話会」で重要な働きを演じ、また公害問題対策へのきっかけづくりの役割も果たしたのである[3]。しかし、ここで注目すべきは高坂が政治に関わることで残した結果以上に、その「関わり方」である。高坂は当時をこう述懐する。「佐藤も、ブレーン・トラストの編成を任された楠田秘書官も、ブレーンの能力を利用するという以上に、学者・知識人を尊敬してくれていた…そして、そのことを私は感謝する。佐藤内閣は学者・知識人の言動を政治的説得の手段として利用するのではなく、好きなことをさせ、立派な出番を与え、政策に言葉と形を与えることで満足したように思われる。大体、学者・知識人の考えたことを政治家が実行するというのでは巧くいくわけがない。しかし、政治家が目指していることの正当化あるいは理論づけを学者・知識人に依頼してもその持ち味は活かされない。“キャッチ・ボール”とは言いえて妙で、両者がそれぞれ独立に考え、行動しながら、お互いに啓発されるというのがあるべき姿なのである[4]。」

いい意味で高坂は、「不真面目」(楠田實)であった。しかしそれを飄々とできる人物・学者は多くは無い。政治には政治(まつりごと)の論理がある。その権力の「なか」にあって、しかもなお巻き込まれずに「そと」の視点を持ち続けることは非常な使命感と同時に、克己心、そしてある種の諦観を併せ持っていなければならないのである。

 

学者・知識人が社会において果たすべき「役割」とは何なのであろうか。様々な果たし方があるだろう。高坂は自らの「果たし方」を自覚し、戦後日本に向かい続けた。ベトナム戦争への批判が日に日に高まっていた頃、高坂は小田実と対談したなかで図らずも自らの、社会における役割の果たし方についての考えを垣間見せている。

小田がベトナム戦争に関してアメリカと日本を批判するなかで、高坂にあなたはどのように動くのか問い詰める。それに対して高坂は言う。

 

「ぼくは真剣に考える場合、ユーゴスラビアのミロバン・ジラスが、スターリン主義を強力に批判して投獄されたことを思う。しかしユーゴスラビアが、スターリン主義から脱却したのはミロバン・ジラス以外の人の地道な努力によってであった。しかし、スターリン主義への反対者である彼が、ああいうことを書いたために、力を得たかもしれない。ぼくは常にそのことを思うわけです。ミロバン・ジラスは普通いわれている意味の現実主義者ではない。かれは理想主義者で批判者です。そのどっちがユーゴをスターリン主義から脱却させるのにあずかって力があったかということを考えると、ぼく自身の趣味としては実務家のほうを買う。」

 

「反戦運動も、但し書きつきの反政府運動もあったほうが、社会全体の効果からいえばいいと思う。ぼくは戦後の日本で平和運動、平和思想があったことは、マイナスの評価はしない。それにわれわれは自由主義国家だから、ベトナム反戦運動があることは誇りにすべきだと思う。けれどもその点は評価したうえで、…問題を感ずるのは、…頑として秩序を維持する、冷たい頑固者がいなければだめだということですよ。反体制運動だけで社会秩序がなければ社会は成立しない。…「反政府運動」もあってもいいけど、同時に確固たる政府も必要なんで、ぼくは趣味として強力な政府に助言して支援するという立場をとりますね[5]。」

 

高坂は社会という「演技場」(「観客」は市民であり世論である)において、ある種の「役割分担」をどこかで意識していたのかもしれない。そしてそれを意識しているか否かは、実際の思考や行動(例えば、異なる意見・反対者に対する姿勢)において極めて大きな違いをもたらすであろう。より重要なことは、高坂が「政府」、つまりは「権力」が持つ「両義性」を正面から受け止めていたことである。権力は恐ろしい、とくにそれが誤った用いられ方をした場合の悲劇は計り知れない。またアクトン卿の名言通り、「権力は腐敗する。特に絶対的権力は絶対的に腐敗する」のである。その意味で「権力」にただひたすら相対して監視する、純粋な「批判者」の存在意義はある。では、誤った・腐敗した権力を正すのは何者なのか。それは「批判者」ではない。「批判者」はその純粋さゆえの鋭さによって、権力が正される「きっかけ」を作り出す、もしくは事前抑制の「きっかけ」を作り出すに過ぎない(もちろん、その役割の大きさは強調してもし過ぎることはない。)いささか逆説的ではあるが、正すのは誤った「本人」、すなわち権力自身に他ならないのである。そして言うまでもないことだが、権力は「破壊力」と同時に「創造力」を持っており、権力が有用に動くならば、まさにその「力」により発揮される「創造力」は計り知れない。高坂は権力の両義性を正面から受け止め、力のより良い用いられ方の「助言」のために政治・権力と接点をもったのである。そこで高坂は、権力を批判すべきときは批判すると同時に、権力者(政府)が種々の政策を実行していく上での困難さや厳しさ知っているが故にそれに共感し、叱咤激励を忘れなかったのである。

 

高坂は「自分は公共財だ」と述べたことがあるという[6]。その言葉通りの使命感を持って高坂は戦後日本という場所と時代の課題に取り組み続けた。論文を書き、時事的発言をし、政府に助言をし、講演を行い、テレビに出演し、さらに次代を担う学生を教育する。もちろん、使命感の発露としての行動は各人によってそれぞれであろう。高坂は高坂なりの行動を戦後日本においてとっただけである。それが他と比べて(例えば純粋な「批判者」と比べて)優れているとかどうとかは言えないし、言うつもりもない。だが、それにもかかわらず、高坂の時代への関わり方、なかんずく政治権力との関わり方は、ある時代のある場所に生まれた人間として、そして学者・知識人の時代への関わり方として、ひとつの「理想型」を示しているのではないだろうか。



[1] 実際の高坂の動き・関わり方(特に沖縄問題に関して)を詳細に記述することはここでの主たる関心ではないことを付記しておきたい。

[2] 『中央公論』1964年10月号、195頁。ちなみに、高坂の叔父である河合好人は佐藤栄作と東大で同期であり、また鉄道省勤務で同僚であった。

[3] アステイオン編集委員会「追悼・高坂正堯氏」『季刊アステイオン』阪急コミュニケーションズ、1996年秋号、209頁。楠田實『楠田實日記』中央公論新社、2001年。

[4] 「佐藤栄作―「待ちの政治」の虚実」『高坂正堯著作集』都市出版、2000年、573頁。佐藤政権と高坂の関係と、中曽根政権と高坂の関係は首相のキャラクターや考え方を主たる要因として相当に違う。だが、この点はまだ研究不足である。

[5] 小田実『問題のなかでしゃべる―小田実対話集』講談社、1970年、175−176、178−179頁。

[6] 「高坂正堯―高貴なる情熱家の肖像」『婦人公論』1996年8月号、89頁。

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